上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第六章  上総武田氏と上総金田氏 その5
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第一章 第二章 第三章 第四章 第七章 第八章

 
  金田常信の代に金田姓に復した歴史的背景を知るために、第五章で享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響を及ぼしたかについて検証してきた。
しかし、金田姓に復するのに直接影響を及ぼした上総武田氏について検証することで、千葉大系図や金田系図にも記されなかった隠された事実を解明しなければ、今日上総金田氏の子孫たちが金田姓を名乗ることになった真実を知ることはできないのである。
上総武田氏は上総金田氏と親密な庁南武田氏と後に敵対関係になる真里谷武田氏に分かれて上総国を統治した。
第六章では上総武田氏を詳しく扱うことで上総金田氏との関連性を検証することにする。

蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                    (三河金田氏祖)  
 
 (14)上総金田氏系図での信定(武田信高)

千葉大系図で上総金田氏の信定に相当する人物が上総介信高であることは既に述べてきた。
真里谷武田氏では信高を信定と称した系図(上総武田氏系図其二)が残っていたので信高と信定が同一人物であると特定できたからである。
もう一度上総介信高についておさらいをしてみたい。
 武田信高(信定)  享年51歳 生まれた年  永享2年 (1430年) 没した年  文明12年(1480年) 

 上総本一揆の結果鎌倉公方足利持氏が没収した御料所が付近に多かったと考えられる庁南城が、上総武田氏の最初の居城だったのではないかと既に述べた。その後、武田信長は武田信高を庁南城主とし、自身は真里谷城に移り上総国西部の支配権確保に尽力した。

上総国の支配権を確保した武田信長に対し将軍足利義政は、守護大名に補任することを暗黙の了解として幕府への投降させようと接触してきた。武田信長は応じなかったが、古河公方・千葉介は対応を迫られた。
そこで上総介広常の弟金田頼次の子孫で上総氏の血脈と伝統を伝えている蕪木常信に金田姓に改姓させた。武田信高は上総武田氏の当主であると同時に、金田常信から上総金田氏当主を譲られ上総氏のを継承した。
上総介信高は上総国を支配する正当性と権威を保持し、古河公方配下の序列では千葉介に次ぐ地位を上総介がしめた。

上総介信高が没すると、真里谷武田氏が庁南城と上総介を継承した庁南武田氏に反発するようになる。
上総介信高を記した系図以外に、信高を信定とし真里谷城主として真里谷姓を称したとする系図を作成したのだ。
千葉大系図では金田氏の系図に信定と記載されており、下記金田氏系図(常信~正信)の信定の説明に(実は真里谷城主武田信定)と表記した。
信定の説明の(実は真里谷城主武田信定)だけでなく、更に(本当は庁南城主武田信高)を付け加えたい気持ちである。
 

 (14)武田宗信(上総金田氏系図の宗信)

千葉大系図で上総金田氏の宗信に相当する人物が武田宗信である。
庁南武田氏の当主は上総氏正当の継承者を兼ねているため、武田などの姓は使わず上総介のみとしたので上総介宗信と呼ぶのがふさわしい。

文明12年(1480年)51歳で上総介信高が没すると、宗信の父道信が庁南城主と上総介を継承した。
上総武田氏は道信を祖とする庁南武田氏と信興を祖とする真里谷武田氏に分裂した。
一般に武田信高の子として道信・信興が紹介されているが、年齢で照合すると二人は信高の弟で信興・道信の順になることは既に述べた。
真里谷城主にこだわった武田信興(以後真里谷信興)が上総武田氏の本家に当たる庁南城主を弟の道信に譲ったのがすべての原因である。
古河公方派の序列では、真里谷武田氏が千葉介・上総介に次ぐ位置となり、庁南武田氏より下位になることは真里谷信興にとって不本意であったらしい。

武田道信は兄真里谷信興に遠慮して、兄である故武田信高を二人の父とする系図改ざんに協力するなどの努力をした。しかし家督継承後1年で46歳で没したのであった。
文明13年(1481年)道信の嫡子宗信が庁南城主・上総介を継承した。23歳であった。
上総武田氏最大の実力者真里谷信興との関係は、庁南武田氏が真里谷氏より序列が上のことなどが原因で次第に疎遠となっていくのであった。

上総介宗信は上総氏の正当な継承者であることを最も意識した人物であった。
庁南城主であった武田信高が上総金田氏の当主も兼ねることで、上総広常の弟金田頼次から守ってきた上総氏の血脈と伝統を受け継ぎ、上総介として上総国の正当な支配者である権威と権力基盤を確保したことは既に述べた。
しかし武田信高が没すると真里谷信興のように武田氏としての誇りを強く意識し、上総氏の血脈など邪魔にしか感じない人物もでてきたのである。
幸い道信の子宗信が庁南武田氏を継承してくれたことは、上総介を受け継ぐ最もふさわしい人物だったと評価できる。

上総介宗信は本佐倉城主である千葉宗家との関係を重視した。千葉宗家が支配している下総国にとって、上総国は重要な隣国であった。
庁南武田氏との良好な関係が千葉介・上総介という一体的な関係にまで発展するのが理想と考えられていた。
千葉介・上総介がいかに親密だったか具体的に述べたい。

  • 上総武田氏系図其三で武田吉信の母千葉介勝胤の娘と書かれている。武田吉信(1475-1568)と千葉勝胤(1471-1532)を年齢で比較すると母親はありえない。吉信が中年になって若い嫁さんをもらったとするならば、吉信が勝胤の娘婿になることはあったのかもしれない。
  • 上総介宗信の次男信方を下総国伊地山城城主白井平胤が養子として迎えたのである。上総介宗信には親族が少なく、同じ上総武田氏の一族真里谷氏などと疎遠だったことを考えると、この養子は上総介宗信の意図をな感じがることができる。伊地山城は現在の香取市伊地山に位置し、金田信吉の妻の生家である粟飯原氏の居城小見川城に近く、更に白井平胤は金田氏の先祖の一人金田成常を娘婿とした白井胤時の流れを組む人物と思われる。次男信方を白井氏の養子とすることで、千葉氏との縁を更に深める意図があったのではないだろうか。白井信方は後に庁南武田氏の家老として戻っている。
  • 庁南城には今も妙見社が残っている。千葉一族の妙見信仰は有名で、本佐倉城や赤塚城には今も妙見社が残っている。
    庁南城に妙見社が設置されたのは、上総介宗信が千葉氏の信仰を尊重したことによるもの。庁南城については庁南武田氏の史跡を巡る歴史散歩で詳しく紹介しています。


妙見社


長南町が庁南城跡大鞁森を説明した掲示板

 (15)金田信吉と勝見城

上総介宗信が千葉宗家との関係を重視したことが、金田氏復活と勝見城築城となったと考えられる。
武田信高が金田氏当主となることで、上総氏の血脈と伝統を継承し上総国の正当な支配者である上総介と称したことは既に述べた。
上総武田氏がその後完全に支配権を確立すると、真里谷信興のように武田氏としての誇りを重視する人物が上総武田氏の中に多くなってくる。
宗信が庁南城主にならなかったら、金田氏は上総武田氏に利用されただけで使命を終えただろう。

上総介宗信の上総金田氏に対する思いは勝見城を築城し、上総金田氏から直接血脈を継承した金田信吉を城主にすることによって具現化した。
上総介宗信は鎌倉時代に上総金田氏の居城で当時廃城となっていた勝見城を新たに築城したのであったが、軍事的重要性を認識したことによるものでもある。下の地図を見ていただければ勝見城が庁南城の東側に位置しており、庁南武田氏にとって東部方面の拠点として築城されたと考えられる。勝見城は小田原の役で上総武田氏が滅び廃城になるまで庁南城の支城として存在した。



   

勝見城跡 山の中腹にある構築物(勝見城跡展望台)付近が城跡にできたやすらぎの森
 
     
上総介宗信は勝見城主に金田信吉を任命したのであった。ここに勝見城主金田左衛門大夫信吉が誕生し金田氏が新たな歴史を歩むことになる。
勝見城主は信吉の嫡子金田左衛門大夫正信が継承し、小弓公方足利義明を擁する真里谷氏・里見氏に千葉介・上総介が攻められ、その争いにより上総金田氏は終焉となってしまう。そのことは次章で詳しく述べたい。勝見城についてはに詳しく書かれています。



勝見城跡が陸沢町のやすらぎの森として整備されている


歓喜寺入口付近の城跡の碑

 (16)金田信吉の人物像

上総介宗信は庁南武田氏の権力基盤が確立されたとして、金田氏当主を金田常信の子金田信吉に継承することによって上総金田氏を復活させた。
更に金田信吉の先祖である金田成常が宝治合戦で所領を失うまで城主だった勝見城の城主として完全に復活させたのである。
上総介宗信の金田氏に対する熱い思いと金田信吉との深い信頼関係があったからこそと考えられる。
更に金田信吉の子正信の代には、正信の娘が千葉介昌胤に嫁ぎ後の千葉介利胤・千葉介胤富の母になるのである。このことは金田正信が上総介宗信の親類でなければ考えられないのである。ただの家臣の娘だったら千葉介に嫁ぐことは無い。

上総金田氏最大の謎の人物金田信吉とはどのような人物だったのだろうか。その人物像を探りたい。

寛政重修諸家譜では「上総国勝見の城に住し、同国万喜の城主土岐氏と里見家と合戦の時、千葉の族とおなじく鶴見時通を援てしばしば里見と戦う」と信吉について書かれてる。
万喜城主の土岐氏は里見氏に属していたが、第二次国府台合戦1563-1564に里見氏が小田原北条氏に敗北すると、千葉氏と同じく小田原北条氏に属し里見氏と戦い屈することはなかった。金田信吉の曾孫千葉介胤富の代に起きた出来事のため資料としては注意を要する。次章で里見系図を調べることで上総金田氏と里見氏の関わりを調べることにする。

①親族の生まれた年から信吉が生きた年代を推定する

参考になるのは下記の千葉介の年齢である。利胤が昌胤21歳の時の子であることから、金田正信の娘は昌胤と年齢が近かったと推測される。
昌胤が勝胤25歳の子であったことを考えると、金田正信は勝胤と同世代であったと考えられる。
  
千葉介勝胤  ― 千葉介昌胤   千葉介利胤
1471-1532    1495-1546   1515-15147 
   └  千葉介胤富
      妻 金田正信の娘  (利胤・胤富の母) 1527-1579 

参考 武田宗信 1459-1551 武田吉信 1475-1568

金田正信が千葉勝胤と同世代だったことにより、弟の金田正興(三河金田氏の祖)も勝胤と同世代又は少し若かったと考えられる。
そして、金田信吉については1450年以前に生まれたと考えるのが妥当であろう。武田宗信より年長であることから武田道信・宗信2代に仕えたと考えられる。

②信吉という名前が意味するもの。

上総介宗信は上総介という権威が上総国に定着したと考え、庁南武田氏の次期当主を嫡男吉信とし、金田氏当主に血脈を受け継ぐ金田信吉に継承させた。ここで注目するのは信吉という名前である。千葉宗家では鎌倉時代宗胤・胤宗や貞胤・胤貞というように親族間で名前を逆さにつける習慣があった。
上総介宗信が吉信の逆さである信吉という名前を与えたのは、特別な意味があったと考えられる。宗信より年長者だった信吉は当時別の名だったはずで、吉信元服の時に、新たに信吉の名が与えられ宗信から金田氏当主を継承し、先祖ゆかりの勝見城主に任命されたと考えられる。

③金田正信の娘

金田正信の娘が千葉介昌胤に嫁ぐことになったのは、千葉宗家と庁南武田氏が縁戚関係になることが目的だったはずである。金田氏単独で千葉宗家と縁戚関係になることはありえない。金田正信の年齢と武田吉信の年齢を照合すると、吉信に妹がいて正信に嫁ぐと釣り合いの夫婦になったと考えられる。
二人の間に出来た(金田正信の)娘は上総介宗信の孫にあたり、千葉宗家に嫁ぐ有資格者となれたのである。


④金田信吉は何者?

金田常信が金田氏当主を武田信高に譲ったことで、上総国を支配した上総氏の流れを汲むことができ上総介信高と称したのであった。上総介信高は上総氏の正当な継承者として上総国に権力基盤を築くことができた。
信高・道信・宗信三代の上総介によって上総国における庁南武田氏の権力基盤が出来上がったので、金田氏当主は金田常信の子金田信吉に戻された。更に鎌倉時代の宝治合戦で没収された勝見城主に金田信吉は任命された。
上総介宗信の金田氏に対する熱い思いと金田信吉との深い信頼関係があったことによると考えたのだが・・・・・。

しかし上総介宗信の情緒的思いだけで金田信吉が庁南武田氏における実力者となることができたのだろうか。
本来なら上総国における有力者と縁戚関係になった方が良いのに、千葉介配下の小見川城主粟飯原氏と縁戚関係になったことに注目したい。
そこで下記の理由により「金田信吉は千葉介と上総介の同盟関係に重要な働きを果たした人物だったのでは」という考えに達した。

  • 下総国を支配する千葉宗家にとって上総国は防衛上重要な隣国である。同じ古河公方派の武田信長の入部に際しても支援した。
  • 上総介信高として上総国の支配権を確立すると、千葉介・上総介として良好な関係を維持することが出来た。
  • 上総介信高が没すると真里谷信興のように上総介を軽視する弟もいたため、庁南城主の後継者に信高の弟である道信を千葉宗家は支援した。このような経緯から道信・宗信は千葉介との関係を重視し真里谷信興とは疎遠となった。
  • 金田信吉は真里谷信興が信高の後継者に単独でなることを阻止するため、庁南城配下の家来衆をまとめるとともに、古河公方・千葉介の支持を獲得し道信が庁南城主・上総介になる為に最大限の努力をした。
  • 庁南城主・上総介となった道信・宗信に仕え、その後も千葉介・上総介として良好な関係を維持することに努めた。妻を粟飯原氏からもらうことで、千葉介の重臣鏑木氏だけでなく千葉氏一族の有力者ともつながりを確保した。

⑤千葉大系図で隠蔽された歴史的事実

上総介宗信の金田氏に対する熱い思いが金田信吉を好待遇したのか、上総介道信擁立に大きな働きをしたので金田信吉が庁南武田氏の実力者となったのかは今となっては分からない。
もう一度、常信-信定-宗信-信吉-正信について千葉大系図に書かれていることを検証してみたい。
庁南城主の信定・宗信、その宗信の娘婿と推定した正信については何も記載されていない。
千葉介利胤と千葉胤富の欄に母が金田左衛門大夫正信の娘と書かれていることで、正信が千葉宗家にとっても無視できない人物であることが判明した。
千葉大系図では常信・信吉についてはあくまで千葉介の家臣として書かれているのである。
寂しい話であるが、上総金田氏が千葉宗家と庁南武田氏との同盟関係に果たした役割について、千葉大系図は歴史的事実としては無かったこととして扱われたのである。そして上総金田氏は上総国で千葉宗家のために活動したように千葉大系図で書かれたが内容は矛盾だらけなのであった。

これにより上総金田氏と庁南武田氏との関係を意図的に隠蔽されたのであった。
千葉大系図の特色として、都合の悪いことは記載しなかったり、系図を操作することで人物関係がわかりにくくすることがある。
しかし、意図的に嘘の情報を書き込むことで資料としての信憑性を傷つけることはなかった。
そのことから、常信・信吉は庁南武田氏に仕えていても、あくまで千葉介の家臣として行動していたことを千葉宗家が認めてくれていたことを千葉大系図が証明してくれている。

庁南武田氏は千葉宗家と同盟関係だったが、小弓公方足利義明を擁する真里谷氏・里見氏に攻められ庁南城が落城すると、庁南武田氏は小弓公方足利義明に属することになり千葉氏と対立する関係になってしまった。
千葉介・上総介の良好な関係を築くために活躍した上総金田氏であったが、庁南城が里見氏に攻め落とされ上総金田氏は終焉を迎えることになる。その後、庁南武田氏が小弓公方足利義明に帰属することになり千葉宗家と対立する立場に変わったことで、庁南武田氏につながる記述は千葉大系図からすべて削除されることになったと考えられる。上総金田氏の終焉については次章で詳しく述べたい。

 
 
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